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常例布教(築地本願寺)2010.09.05
5月2日以来の築地本願寺。
といっても、境内で hide の音楽を流して布教してきた訳ではありません。
浄土真宗の、お聴聞に行ってきました。
参詣者は、老若男女合わせて40人ほど。講師の先生は、30代くらいで、スポーツマンタイプのイケメンでした。お話の前に、『重誓偈』「勤行」がありました(動画)。
以下、お話のメモです。
弥陀のみ教えに「あう」と言うとき、「合」や「会」ではなく「遇」という字を使います。これは、私が聞こうと思って「あえた」のではなく、たまたま、聞けるはずのない教えに「あえた」、仏様からのお手回し、お育て頂いてのこと、ということです。ちなみに、「遭」という字も「あう」ですが、これは好ましくないものに「あう」ときに使います。
私たちは、たまたま弥陀のみ教えにあうことが出来ました。そのお手回しを喜びなさい、と言われている親鸞聖人のお言葉です。
疑網とは疑いの心。「聞思して遅慮することなかれ」とは、ぐずぐずせずに、そのまま頂けよ、今あえたことを慶べよ、ということです。
唯円さんが、親鸞聖人に2つのことを尋ねたことが書かれています。
2つのこととは、
・本願を疑っている訳ではないが、踊り上がる程の喜びが起きてきません
・今すぐに浄土にいきたいという心が起きてきません
というもの。
家族、夫婦
お金、財産
名誉、肩書き
世俗のこととはいいながら、私たちはこれらのものを頼りにしてしまいます。執着をかけます。これらは絶対的に頼りになるものではありません。頭では分かっていても、どうしてもこれらのものにしがみついてしまいます。
こう唯円さんは、聞いてみました。「お前は何を聞いてきたのか」と叱られるのではないかと緊張していたのではないでしょうか。そうしたら、親鸞聖人から、意外な答えが返ってきました。
親鸞もあなたと同じだよ、と。
そして、こう続けられます。
よくよく考えて見ると、喜ぶべきことを喜ばない私をみて、往生は決まったと思います。喜ぶべきことを喜ばないのは、煩悩が邪魔しているのです。
阿弥陀さまからみれば、それはすでにお見通しなのです。ご本願は、そのような私の為に、今、働いて下さっているのだよ。
こう親鸞聖人はおっしゃった、と書かれているのです。
一言で言うと、落ちこぼれに手がかかる本願だということです。それが仏さまのお慈悲なのです。
南無阿弥陀仏とは、「勝易二徳」「全徳施名」と言われます。全てのお徳が阿弥陀さまによって作られているのです。私の方から用意するものは何も無いのです。
仏教は、大きく2つに分かれます。
親鸞はとても聖道門の教えで救われる者ではないとおっしゃっています。
外面を整えても如来さまはお見通しなのです。
聖徳太子も同じことを「十七条憲法」に言われています。
「相共に賢愚なこと鐶(みみがね)の端無きが如し」と。自分だけが正しい、というのではない、縁がきたら自分もどうなるかわからない、というお心です。
また、聖徳太子の言葉に
『教行信証』の最後に、道綽禅師の『安楽集』を引用しておられます。最後ですから、結論、最も言われたいことです。
私(講師の方)が学んだ行信教校というところでは、今は普通の卒業証書が渡されますが、昔はこう書かれたものを渡されていたそうです。
会館内には親鸞聖人750回大遠忌のポスターが貼られていました。2011(平成23)年4月より2012(平成24)年1月までです。またお参りしたいと思います。
それと、これが生活信条。心がけたいと思います。
境内には極楽を思わせる(?)大きな蓮と、親鸞聖人の像がありました。
帰りに、近くの仏壇屋で勤行集と念珠を入手。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、
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といっても、境内で hide の音楽を流して布教してきた訳ではありません。
浄土真宗の、お聴聞に行ってきました。
信心をうれば暁になるがごとし
When shinjin is realized, it is as through dawn has broken.
参詣者は、老若男女合わせて40人ほど。講師の先生は、30代くらいで、スポーツマンタイプのイケメンでした。お話の前に、『重誓偈』「勤行」がありました(動画)。
以下、お話のメモです。
噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。若しまたこの廻(たび)疑網に覆蔽(ふくへい)せられなば更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。(『教行信証』総序)
弥陀のみ教えに「あう」と言うとき、「合」や「会」ではなく「遇」という字を使います。これは、私が聞こうと思って「あえた」のではなく、たまたま、聞けるはずのない教えに「あえた」、仏様からのお手回し、お育て頂いてのこと、ということです。ちなみに、「遭」という字も「あう」ですが、これは好ましくないものに「あう」ときに使います。
私たちは、たまたま弥陀のみ教えにあうことが出来ました。そのお手回しを喜びなさい、と言われている親鸞聖人のお言葉です。
疑網とは疑いの心。「聞思して遅慮することなかれ」とは、ぐずぐずせずに、そのまま頂けよ、今あえたことを慶べよ、ということです。
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、又いそぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、如何にと候べきことにて候やらん」と、申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり。よくよく案じみれば、天に躍り地に踊るほどに喜ぶべきことを、喜ばぬにて、いよいよ「往生は一定」と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて、喜ばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねて知ろしめして、「煩悩具足の凡夫」と仰せられたることなれば、「他力の悲願は、かくの如きの我らがためなりけり」と知られて、いよいよたのもしく覚ゆるなり。また浄土へいそぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、「死なんずるやらん」と心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。(『歎異抄』第9章)
唯円さんが、親鸞聖人に2つのことを尋ねたことが書かれています。
2つのこととは、
・本願を疑っている訳ではないが、踊り上がる程の喜びが起きてきません
・今すぐに浄土にいきたいという心が起きてきません
というもの。
家族、夫婦
お金、財産
名誉、肩書き
世俗のこととはいいながら、私たちはこれらのものを頼りにしてしまいます。執着をかけます。これらは絶対的に頼りになるものではありません。頭では分かっていても、どうしてもこれらのものにしがみついてしまいます。
こう唯円さんは、聞いてみました。「お前は何を聞いてきたのか」と叱られるのではないかと緊張していたのではないでしょうか。そうしたら、親鸞聖人から、意外な答えが返ってきました。
親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり。
親鸞もあなたと同じだよ、と。
そして、こう続けられます。
よくよく考えて見ると、喜ぶべきことを喜ばない私をみて、往生は決まったと思います。喜ぶべきことを喜ばないのは、煩悩が邪魔しているのです。
阿弥陀さまからみれば、それはすでにお見通しなのです。ご本願は、そのような私の為に、今、働いて下さっているのだよ。
こう親鸞聖人はおっしゃった、と書かれているのです。
一言で言うと、落ちこぼれに手がかかる本願だということです。それが仏さまのお慈悲なのです。
南無阿弥陀仏とは、「勝易二徳」「全徳施名」と言われます。全てのお徳が阿弥陀さまによって作られているのです。私の方から用意するものは何も無いのです。
仏教は、大きく2つに分かれます。
- 聖道門--修行で救われる教え
- 浄土門--阿弥陀さまが仕上げて下さったお念仏で救われる教え
親鸞はとても聖道門の教えで救われる者ではないとおっしゃっています。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし(悲嘆述懐和讃)
外儀の姿はひとごとに 賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪義ぎおおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる(悲嘆述懐和讃)
外面を整えても如来さまはお見通しなのです。
聖徳太子も同じことを「十七条憲法」に言われています。
「相共に賢愚なこと鐶(みみがね)の端無きが如し」と。自分だけが正しい、というのではない、縁がきたら自分もどうなるかわからない、というお心です。
また、聖徳太子の言葉に
世間虚仮 唯仏是真とありますが、親鸞聖人は
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわしますとおっしゃっています。人間に真実なし、というスタンスです。
『教行信証』の最後に、道綽禅師の『安楽集』を引用しておられます。最後ですから、結論、最も言われたいことです。
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪ぶらい、連続無窮にして、願はくは休止せざら使めんと欲す。無辺の生死海を尽さんが為の故なり。(『教行信証』後序)
私(講師の方)が学んだ行信教校というところでは、今は普通の卒業証書が渡されますが、昔はこう書かれたものを渡されていたそうです。
南無--しんぱいするな
阿弥陀--必ず救う
仏--わしはお前の親じゃから
会館内には親鸞聖人750回大遠忌のポスターが貼られていました。2011(平成23)年4月より2012(平成24)年1月までです。またお参りしたいと思います。
それと、これが生活信条。心がけたいと思います。
浄土真宗の生活信条
一、み佛の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます
一、み佛の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます
一、み佛の教えにしたがい 正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます
一、み佛の恵みを喜び 互いにうやまい助け合い 社曾のために盡します
境内には極楽を思わせる(?)大きな蓮と、親鸞聖人の像がありました。
帰りに、近くの仏壇屋で勤行集と念珠を入手。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、
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